Sさんのこと
もうずいぶん昔のことですが、私はとある書店で働いていました。 Sさんというのはそこの同僚(男性)で、同じ年に生まれ、学年は1つ上でした。 ただ、Sさんは正社員ではなく契約社員で、いわば、安い給料で正社員と同様の仕事をしていたのです。
Sさんは酒が好きで、呑みすぎちゃうと、たま〜に宿酔いで店に来られなくなったりすることもありました。
女性従業員からの、「ま〜たSさん、酒臭いんだから〜」という声は、よく聞きました。 店の店長は、よくそんなSさんのことを叱咤してましたが、彼は書店のことはひととおりなんでもこなせましたから、ある面、都合よく使ってるなァ、と思うこともありました。 それと、Sさんは愛嬌がありましたので、人に嫌われるということはありませんでした。
そんなSさんと私は仲良しで、よく仕事帰りにいっしょに酒を呑みに行ったりしました。 また、若い女性従業員たちの陰謀で、いっしょにカラオケルームに拉致されることもありました。
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そんな時代、私は母を喪うという、人生の一大事に遭遇しました。 悪性のもので身体の自由がどんどん失われ、イヤでもみずからの死期を覚らざるを得ない状況で、しかも頭のよい人でしたので、我々家族も医師も、本当のことを告げざるを得ませんでした。
しかし母は静かに運命を受け止め、いささかも取り乱すことはありませんでした。
こんなにダンディな生きざまを、こんなに過酷な状況で見なければならないことを、誰が予測したでしょう。
で、取り乱していたのはまさに私で、無智なりになんとかして奇跡を起こして治したい、その一心で医学、代替医療まで勉強し、俄か仕立てですが、できるだけのことを、命を削る覚悟で必死にやりました。
しかしながら結果としてはその甲斐もなく、奇跡は起きず・・
さまざまありましたが、かくして「もはや時間の問題」という状況にあいなったわけです。
いつ逝くかわからない、その極限の状況のなかで、私は病院につめておりました。 しかし立場はサラリーマン、上司の店長に報告もしなければなりません。 ときの店長曰く、「仕事もたまってるから、お母さんは誰かに看させて、お前はそろそろ仕事に出てきたらどうだ」とのことでした。 とはいえ、すでに意識は混濁していて、いま目を離してはいけない!、という気持ちが優先していました。 私は、「もう少し様子を見させてほしい」と嘆願しました。 店長はあからさまにダメとは言えないようですが、当然のように、色よい返事はくれません。
そうして数日後、また報告のために店に電話をかけます。 私は精神的極限と疲労もあり、感情を抑えることもできず、涙声になり、そして嗚咽して話すことも困難になっておりました。
そんなとき電話に出てくれたのがSさんで、 「リューちゃんよォ、こっちのことは大丈夫だからさァ、お母さんについててあげなよォ」 と、言ってくれました。
私はその言葉にどれだけ救われたことでしょう。 立場的に言えばSさんは契約社員、そのようなことを言える立場でもないですし、判断もできる権限はありません。 もしかしたらSさんは、そのことで責められたりもしたかもしれません。 でも彼は、私にはそんなことはオクビにも出しませんでした。 私は、このときのことを忘れたことはありません。
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それから時は経ち、私は茨城の書店の店長をやっておりました。 そのときSさんは町田店におりましたが、やはり酒が入ると・・というのが重なったらしく、退職させられたとの情報が入ってきました。 私の許に来た、Sさんの送別会をやるとの話の文脈のなかで、事情が腑に落ちたというふうな塩梅でしょうか。
通常は、送別会というのは店単位でやるものですが、私はSさんと仲がよかったので、知らせてくれた者があったのです。
私 はもちろん出席すると伝え、当日は私の初代超高級リムジン(キーレスエントリーもパワーウインドーもついていない軽自動車)で町田までおもむき、有料の駐車場に停めておき、当然会のあいだアルコールは摂取せず、二次会もカラオケ会も終わってから、皆と別れてSさんを車に乗せ、彼の自宅のある厚木まで送りまし
た。 そうすると、Sさんは家のそばの彼の行きつけの飲み屋にいっしょに行こうというので、私もつきあいました。
そこを出るとそうとうな時間となっていましたが、Sさんは今度は、「リューちゃんよォ、オレん家泊まってけヨ」と言います。
さすがに次の日仕事があって何時間かあとには店にいないといけないのでそれは辞し、それから一直線に茨城に戻り、シャワーを浴び、少し仮眠をとって出社しました。
あのときの恩義には全然及ばないけれど、ホンのちょびっとだけ、恩返しができたかもしれないなァ、と思いました。
「Sさん、またいっしょに酒呑みたいネ!」
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