なつかしさ
失われしものに対する愛惜の情として、「なつかしさ」という言葉は使われます。
ところが見たこともなく、行ったこともないのに、なつかしいと感じることもありますよネ。
デジャヴと呼ばれるものがそれに近いでしょうか。
またジャズ評論家の間章(あいだあきら)は、「廃墟とはなつかしさである」と記しました。
私は思うのですけど、たぶん、自分がこの世に出ずるその前の世界に通ずるものに出会うと、なにかしらの共鳴作用が起こって、「なつかしさ」の情動が湧き出る、もしかしたらそんなこともあるのではないでしょうか。
とすると、私たちの生まれる前というのはとても居心地よく、慈愛に満ちたところなのかなァと・・
きっと、そこに帰りたいと思ってるから、なつかしく感じるのでしょう。
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たとえば自然のなかに身を置き、森や草の萌える匂いを胸いっぱいに吸いこんだとき。
人の気配のない荒野でたったひとり小さな火を焚いて、じっとそれを見つめているとき。
繊細な音楽が自分の魂の琴線と共振し、その波動がシンクロしたとき。
いやいや、特段なにもしていないのに、ふとそんな郷愁に駆られることさえあります。
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私の古い記憶のなかで、いちばん最初になつかしさの情動が湧き起こった(そう、湧いて出たような感覚でした)のは、幼稚園のときでした。
なんだろう、この心持ちは・・?
心地よい感覚もあり、それでいてほのかに痛みもあり、総じては淡く甘美なおもむき。
加えて宇宙全体を包み込むような風情も、そこにはありました。
ニンゲンという小宇宙とコスモスという大宇宙が、まさにシンクロしたような感触でしょうか。
そのころ、よくその感覚をふたたび湧き出させようとしていましたが、それは成功することもありましたし、失敗することもありました。
意図的に出そうとしても、これはなかなかうまくいかない。
その感覚の兆候が少しでも見えたとき、サッとそのモードに入るようにすると、これがけっこううまくいきました。
ただし、それを実体とし、形あるものとして観ようとすると、するりと私の手をすり抜け、どこかへ行ってしまいます。
ですから、あまりつぶさにしようとせず、うすボンヤリとしたままの方が感じやすいんだなァ・・、と思っていました。
残念ながら現在は、そこまでの現象は、私の許には訪れません。
でも、それはすぐそばにあるような気もいたします。
すぐかたわらにいて、いつでも私を迎え入れてくれる準備はできている、そんな気がするのです。
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