蒼い夏
遠い記憶をたどっていきますと、幼い頃の夏はなぜか、どこか青っぽいフィルターがかかっています。
その追憶はいつも再現できぬもどかしさに溢れ、胸の奥に軽いうずきを覚えます。
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ニイニイ蝉がたくさんいて、アブラ蝉はその次、ミンミン蝉はちょっとあこがれでした。
カムト虫なんて捕ったらもう、天下を取った気分。
木造の小学校の、蝋(ろう)を引いた黒い廊下を突き抜けると暗い理科室があり、そこにある人体模型は色とりどりの臓器を晒しておりました。
胆だめしにも使えそうなその空間に、私は怖れを感じるとともにどこか幻想的な、異界への入口もありそうな雰囲気に惹かれる自分もありました。
ふと拾ってみたガラス瓶の破片で自分の指を切ってみて、ひとすじの血がタラリと流れてきたとき、はじめて痛みを感じました。
でも存外へっちゃらで、痛みには鈍かったような気がします。
あのときの自分は、どこへ行ったのだろう・・
いや、「いま、ここにいる」のも事実。
ただ・・
いまの自分は蝉を見たって欲しいとは思わない。
見世物小屋があったって、「ああ、作り物だ」と思ってしまう。
まして、自分の指を切ってみようか、なんて絶えて思わない。
でも、「あのときの自分」、「あのときの心持ち」はまぼろしなどではなく確実にあって、いまも生き生きと思い出せるのです。
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ところどころニスの剥げた足踏オルガンの蓋を開いて二度三度、濡れて音の出ない鍵盤を奏いた。
あの日のままの席順に木椅子は睡り、睡りのなかでときおり軋る。
薄荷の匂いに混じって薄桃色の匂いが籠って酸っぱく醗酵してゆくようだった身体検査の日の保健室。
硝子に遮蔽された奇妙な植物の目だたない快楽の色。
破船の一室に航海の幻が青い滴となって一点に滲むように、はるかな夏のまぶしい木霊が一瞬しんとした校舎と共鳴し、いっせいに校庭のヒマラヤ杉の梢に蝉が鳴きだしたようであった。
だがそれはまだ清潔な理科室の蛇口から水が一滴落ちただけのことにすぎないのだった。
淺山秦美 午睡の翅
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